月天王星の体験を見つめて

中学生の時、イベントの打ち上げで、クラスの半分の同級生と集まったことがある。
ジュースで乾杯をして、少し談笑して、しばらくして屋内で過ごすことに飽いた同級生たちが外に出始めた。
けれど、一人の同級生は、テーブルにあった漫画雑誌を読み耽っていて、席を立たなかった。

私は席に残った。
だからといって、席に残ったもう一人と共有するエピソードがあるわけではない。
空間には二人でいたが、一人が二組存在していただけなのだ。
でも、外に出た人たちは、十五人が一組だ。
集合体を数えるなら、席に残ったほうが多数派だといえただろう。

他の同級生たちの盛り上がりに水を差したくはなかった。
テーブルに残る同級生に、外に出ることを強いたくもなかった。
でも、「一人を部屋に残し、他は全員が同じことを楽しむ」というのは、不気味に思えて、耐えられなかった。
私が席に残ることを選ぶことで「好きに過ごしていい時間を、それぞれが楽しんだ」という状況をつくれると思ったのだ。

誤解しないでほしいのは、少なくともこの時の私の不動は、感情的なものではまったくなかった、ということだ。
一人きりにするのがかわいそう、というような思いはほんの微かにもなかった。
感情をむき出しにするなら、私は多数派に加わることで安心したい人間だ。
なのに、私はしばしばこの時のように、圧倒的な数的差異を見ると、多数派に加わることができない。

これはおそらく、私がネイタルチャートに持っている、月天王星アスペクトの体験だと考えている。
多数派へ向かって動きさえすれば、わちゃわちゃとした集団のなかに溶け込んでしまうことができるのに。
そうすれば異端視を受けるという嫌な事態を避けることができるのに。
どうしても動けない。
傍目にはただ「動かなかった」というだけのエピソードだが、私はその「動かない」のために早死にしそうなほど心臓をばくばくと鳴らせていたのだ。